わたしは破壊された顔をしている。

そういえばこのはてなダイアリーに登録したのが
去年の10月だったので、ちょうど一回りしました。(わー ぱちぱち)
あの時も本の話しから書いたけど、
ここ最近もおもしろい本を2冊読み終えたところでした。
秋ってやっぱり文章が読みたくなるのかなあ。。


まず
『診療室にきた赤ずきん 物語療法の世界』新潮文庫
という本です。
著者はある総合病院の精神科のお医者さまで、受診に来た患者に、おとぎばなしを聞かせるという変わった診療法をされます。
患者の話を聞いた後、「赤ずきん」「ももたろう」「幸運なハンス」などのお話しをきかせるのですが、それが不思議と患者の身の上や彼らに起こった出来事とリンクしていて、お話しを聞いた患者達は、そこに照らし出された自分の状況や奥底の心情に気づく、というのがこの先生の診療法です。もともとは、患者の状況を客観的に説明するために、たとえ話を引き合いに出すという手段から、おとぎばなしを使うようになったということです。
この先生の文章は、やさしい、わかりやすい語り口調で、専門学的なことやお説教がましいところがなくて、読んでいると自分がそのままその診察を受けているような気分になります。
自分も、不登校になったときに精神科のお医者様にお世話になっていたので、その時の先生や診療室の様子を思い出すようでした。(まあ私の先生はほとんどお話になることはなく、私がしゃべる、というスタイルの診療方法でしたが)
お値段もお手ごろで、あんまり分厚くない。
ステキな本だ。



もう一冊は先日ブックオフで買った
愛人(ラマン)河出文庫
この本は正解。買って正解でした。
ブックオフで衝動買いした小説で、あんまり当たった例がないのですが、これは◎。
文章が美しい。
著者のマルグリット・デュラスの文章センスはもちろんだと思うのですが、きっと訳も素晴らしいんだと思います。(ちなみに清水徹さんという方です)
私小説なので、モノローグで物語りをつづっていく形は「ライ麦畑でつかまえて」と同じなのですが、見事に途中で挫折したあちらとはちがい、すごく読みやすい。
それでも物語りは著者の回想を交えながら前後するし、会話文には鍵かっこは無いし、「わたし」「彼」という一人称が「彼女」「男」になったり「娘」「男」になったりするので、わかりにくくなるかと思えば、不思議とそうならない。

最初から最後までほんとに美しい文体で、こっそり音読した。(夜中一人で;)

「十八歳でわたしは年老いた」
という文章もしかり、好きなフレーズがたくさんあるんだけど(今日のタイトルもしかり)その中であることに気づいたきっかけになった文章があるので、中略を入れながら抜粋します。
ネタバレになるので、ご注意ください。
(終盤の主人公のフランス人少女が国へ戻ることになり、愛人の中国人の男がその苦しみから少女を抱けなくなってしまう場面)



彼はこう言うのだった。ぼくはもう君を抱けない。自分ではまだ出来ると思っていたけれど、もうできないんだよ。ぼくはもう死んだよ、と言うのだった。彼はとても優しい弁解の微笑を浮かべた。わたしは彼に、こうなったらいいと思っていたの、とたずねた。彼は言った、さあどうかな、いまはたぶん、そうだって言えそうだよ。彼の優しさが、そのまままるごと、彼の苦しみの中に残っていた。彼はその苦しみの話はしなかった。ただのひとことも口にしなかった。まるで彼はその苦しみを愛しているかのようだった。とてもつよく、まるでいまや、わたしよりその苦しみを愛しているかのようだった。



この場面でわたしがはっとしたのは
「(彼は)わたしよりその苦しみを愛しているかのようだった」
というところです。
人ってどんなに「○○さんが好き。彼女(彼)の全てが好き。」と思っていても、
実はそうではなくて、相手に身を焦がす自分自身、ドキドキしたり切なくなったり
胸が張り裂けそうになったりする、そういう痛さとか苦しさが好きになったりすることってある。
それは正確に言うと「○○さん」、「相手そのもの」が好きという気持ちではない。
そういうのってどうなんだろう。
「相手が好き」とか嘘じゃんか。
愛とか好きとかって、結局自己愛なんじゃないのか
って思っていたんです。
でもこの本を読んで、そのものズバリ私の疑問だったことが書かれていた。
それを読んだら「それはおかしい」という気持ちは不思議とわかなくて、
すごく納得できたんです。
相手に身を焦がす自分が好き、その苦しさが好きっていうのは、
相手を好きっていうことと、同じ事なんだって。
納得できた。
なんでこんなに素直にできたのかわからないけど、
まったくイコールなんだな、ってなぜか思えた。


恋するって、相手が好きで、相手が好きな自分が好き、って
考えてみたらまったく当たり前のことだ。
それも含めて、
それが恋なんだ、って。

それに、自分の苦しみが好きだったからといってそれがなんだろう。
ほんとに相手が好きなのかそうでないのかなんて、
追求したって意味無い気がした。



ずっとずっと、
たぶんさかのぼると小学校や幼稚園で「誰々君のこと好き!」ってみんなと一緒にはしゃいでた頃から、なんだか胸に残る違和感の、疑問のしこりがとれたような気がした。


でも気づいてみたら、
ほんとにあたりまえのことだった。