映画では、
特に洋画では
「愛している」
という言葉を発する人間を見ることはあるし
何万回も聴いてきたし言われてきたフレーズだけれど
実際に自分の中に「愛」を実感したことって
どれだけあったか。

愛ってなにをもってして愛?
例えば「恋」ならすぐに自覚できる。
でも愛は自覚したことがない。実感したことがない。
「愛されている」ことは実感するけれど
「愛してる」を具体的に感じたことがなかった
それにさえ気づいていなかった


いま、「大いなる遺産」を母と二人で見て、
借りたDVDが傷だらけで前半の子供時代のパートがまるまる観られなくて
でも後半だけでも観たら思い通りすごくいい映画で
自分の好きな感じで、ものすごく合う感じで
感動したのになんで半分しか観られなかったのか
すごくフラストレーションとともに焦らされた感じがちょっとグッときて
やっぱりMだなって思いながら(ていうか今これを書きながら思ったんだけど)
うちの今月で13歳になった猫を抱きながら考え事をしていたら
ふと思った。
私は愛してる。
この猫を。
間違いなく愛してる。


出だし、大きく言いまして、間にどうでもいい話をはさんで
最終「猫を愛してる」ってどういう了見って思われるだろうけど、
でも違うの。
この時初めて
受けた愛じゃなくて
自分からの愛を自覚したんです。
たとえそれが猫であっても
それは大きなことだと思ったんです。
人生で初めて
自分以外に対する愛情を実感したんです。
「愛してる」
って自覚できた。


そこからわかった。
「愛」って
その人に嫌われても何されても、
たとえばずっと会えなくても、
自分の気持ちには関係なくて
その想いは揺らがない。
「見返りを求めない」というやつです。
自分の中から出て止められないから
相手がどうしようと変わらない想いです。
でも無視されたり冷たくされたら傷つくけど
その人が幸せなら報われるはずの気持ちです。

そういう想いを持った相手は
いまわかったから
私の周りの私が愛する人達がわかりました。

それと、私は今までに男の人を愛したことがないのも
わかりました。
家族以外の男の人を。


わたしが、今までに1度だけしか
たったの10ヶ月しか恋人がいなかったことが
なぜかよくわかりました。
私は愛したことがないからでした。
別れてから何年も経つのに
どうして恋はできるのに恋人はできないのか
ようやくわかったんです。

他人をいきなり愛することからはできないにせよ
その見込みがないって、
うっすらと見抜かれていたのでしょう。
そこまではっきりとした確信ではなくても
そういうものを感じ取られていたのかもしれない。
この考えならつじつまが合う。
つじつまを合わせられる。
私はその人を愛する気がなかったんだ。
多かれ少なかれ、そうういのを感じ取られたのかもしれない。
「こいつは、俺よりも自分自身が好きなんだ」
っていう風に。
事実そう。


実際は、こんなに深く考えなくても、
相手はそこまで考えていたわけじゃなくて
ただ単に私がその人の好みに合わなかっただけだろうし
気が合わないと思われただけだろうし
理由はいくらでも考え付くけど


私は私を納得させるために
この考えに行き着く必要があったんだ。
悲しいけど、
やっと納得できる答えを見つけた気がする。
誰も本当のことは教えてくれないし、
結局一生わからないことだけど、
自分を納得させる考えだけは
見つけられた。

だから、いい。
いいことにする。



少なくとも、
明日から何か変わるかもしれないし
2年後になにか変わるかもしれない。
何も変わってなかったら、

考えたくはないけど
私は可哀相な人間だと思う。
男の人を愛せないなんて。